昭和44年02月19日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったので有り難いのではない。いつもまめなが有り難いのぞ。」

 有り難いのが、治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのだと。難儀な事がある。それをお願いをする。それがほんとにこれは、神様のおかげと言わなければ、思わなければおられないと言う様なおかげを受ける。「ほんとに神様っちゃ有り難いお方じゃ」と。「有り難いことじゃ」と。思うまた言うけれどもね、それは有り難いのではないと仰っておられる。「いつもまめなのが有り難いのぞ」と。
 ここに私はお道の信心の、それは難儀な事を助けて貰う事が有り難いのではないと仰る、っておりますけれども、やはり有り難いのです。けれども、その有り難くないと仰るのは、まめな時には、より有り難いと言う事を強調されたんだとこう思うですね。そりゃ誰だって困った時に助けてもらうんですから、まあ言うなら、暗夜に光明を得るのですから有り難い。有り難いのじゃないと仰るけれど、ほんとに有り難いです。けれどもその次のね、いつもこんな光の中にあると言うか。光明の中にあると言うかね。
 平穏無事であると、まめであると言う様な、あの事が本当にこれは有り難いのであるから、そのほんとに有り難いことを有り難いことと分からせて下さる為に、まあこう言うておられるんだとこう思います。ところがまあ平穏無事でありゃ神も仏もないように言うたりね。平穏無事でありゃ「はあ有り難いと思とります」と言うけれど、こうやって毎日無事で、まあ生活が出来ておると言う事は、まあ何と言うてもこんなに有り難いことはないですよと、まあ言うておるだけであって、その有り難いというものは、どこに響いていくものもないような有り難さであってはいけない。
 その有り難さと、本当にその有り難いとここで言うておられるところの「いつもまめなのが有り難い」と言うその「有り難い」がです。自分の一家にもたらすもの。又はそれが、教会のごひれいにも関わり合いがある。いわゆる一日中奉仕をさして頂いておる、拝詞の中に歌ってありますように。何とぞ世界新の平和を世界総氏子の助かりを願っておるわけですけれども。私が思う一心に有り難いという心。又は「いつもまめなのが有り難いのぞ」とこう仰る。
 ほんとに平穏である、無事であると言う事が有り難いという、その心がです。そういう心が言うならば大きく言うと、真の世界の平和の為に繋がっておらなければいけない。そういう働きがあり、働きかけがなからなければいけない。それを身近な所で言うと、その有り難いというのは。教会のひれいに関わる。教会のひれいに繋がる。そういう私は、有り難いものでなかにゃいけんと思う。昨夜ちょうど8時の霊神様に御挨拶さしてもらおうと思う2:30分前でした。福岡から親子の人が参って来ておられた。
 あら今日えらい早参って来たな。私は月次祭でも参って来たと思っておるもんですから、こたつの前におりましたら、こちらへやって来た。もう最近次々と、ほんとにおかげを受けておる。そのお礼もですけれども、また突発的な難儀な問題、難儀な問題でもないですけれども、本人はもう難儀だと思って、その為に「お前こんな事ではもう、夫婦でん別れる覚悟も決めとけ」と家内に言うてきたと言うぐらいに、本人にとっては難儀な、まあ問題なんです。
 それで話を聞かせて頂くと、問題はあんたが、治まってすりゃ何もない問題じゃないか。と言うような問題なんです。でひとつ、一口御理解頂いてから「ほんとにやっぱお参りさして頂いて良かった」と言うてその、私はもう当然お月次祭に残るもんだと思うておった。もうすぐ私は言うて「月次祭の用意をするから」と言うて立ったんです。そして私お広前来て、お月次祭頂いて帰るとばっかり思うておったら、もう帰っておらん。我が言う事だけ願う事だけ。
 そして勿論おかげを受けても、それは教会のひれいには繋がらないでしょうがね。例えばならお月次祭ならお月次祭の時にです、ほんとに例えば二人でも三人でも御参拝が多いと言う事は、教会のごひれいです。自分達親子がお参りしなかったら、それだけごひれいを欠く事になるのです。しかもお月次祭に、しかもお月次祭がもう今から始まろうと言う時間に、お参りしながらしかも、福岡辺りからまでもお参りして来ておってからです。もう自分の願う事だけは願うた。頼む事だけ頼んだ。
 自分の心だけが安心ができたから、「さあ、もう帰ろう」で帰っておる様な事ではね、これではどういう助かりを今後、この人だけ頂いてもです、これはごひれい教会のごひれいに繋がらないでしょうね。そら何か事情があっても、例えば自分がんなら、お月次祭ならお月次祭を拝む事によって、お広前が少しでも賑わう事になるという、言うならばそれを取らして頂くと言う様な心。いわゆるその事は放っておく心。いわゆる神様を中心、言うなら、お広前を中心にした考え方。
 昨夜は月次祭の後に、まあほんとに優しい優しい意味合いにおいての「信心の確立」ということを皆さんに聞いてもらいましたですね。もうあれは、もう一番初歩の確立なんです。昨日、お話申しました事は。
 だから、本当の意味においての確立というのは、私今日皆さんに聞いて頂く。頂いておる、またこれから聞いてもらおうと言う事なんですね。「信心の確立」と言うのは、ここにここんところへです、46節に痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞと分からしてもらえる。その有り難いと思う心が、教会のごひれいに、「世界真の平和」のそれにも繋がっていくような、私は信心ができた時に、私は本当の意味においての信心の確立だと言う事ね。
 「真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」と言う、言うふうな御理解でしたね。真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝える為にはです、その「真心の道を迷わず失わず」と言う所が、自分のもんにならなきゃいけんです。それを結局昨日は、例えば一生懸けてと言った様な、その思う事がまあそこに確立を見ることだとね。真に有り難いと思う。又はいつもまめであると言う事が有り難い。ところがそのいつもまめであるというおかげを頂いておると、そこへですね、迷わず疑わずと。
 迷わずと言う事がですね、迷うて来る。それが有り難いという心で神様へ一生懸命に、向こうていないから、そういう危機感になるわけです。「梅がかり、酔うて迷わず、春の酔いである。」酔うても迷わないという心。平穏無事な姿ですよね。梅がかりに酔うておると言う事。ところがその酔うてくると迷い出す。昨日の朝の御理解で言うと。ちょっと突つかれたら、もう回れ右をする。ちょっと物音が聞こえてくると、人声が聞こえてくるとそれで動じる。
 それで動くと言うようなですね、ことでは神に一心は届かん、と仰る様な事になる。ですからもういよいよ、ここんところのね、いつもまめなのが有り難いと言う事を分からして頂く信心。もうここ10日あまりでしょうか。いわゆる熱心にここで信心を一家を挙げてなさっておられた方達が、どうした事かその、信心をピタッと辞めたわけじゃない。月に一回くらいは参って来よります。ところがですね、もうこればっかりはもう、私は思うんですけれどもね。
 「神様のおかげを頂かなければ、私の家は立ち行かん」と言う事が分かった。大変天候に関係のある仕事をしておりますから、もう今まではここの例えば、あの方が仕事を致します時に、天気にならなならんのにともうほんとにあの人の家は(どんぶしゃからでも)どうしてふの良いこっじゃろうか。あそこばっかりは恵まれておると言われて来て、それがもう当たり前のようにあった。ところがですね、先生お参りをああして辞めましてから、このかたっていうものは、皆それが反対に行くち言うね。
 その事だけではございません。子供があれが様々な問題がもう、一遍に持ち上がって参りましてから、もうそれはずっとうすうす感じていた事ですけれども、もういよいよ「私の家は、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事が分かりました」ち言う。そして、まあ大体ある意味では非常に慎み深い方ですからですか知らんけれど、その非常に秘密主義なんですね。例えば今日見えてから、この御理解を頂かれると「はら、先生がまた家の事話しなさる」と思いなさるかもしれんけれども、私はそれそれがね、あの障るような事ではおかげは受けられんと思う。
 それがどういう、なら恥ずかしい事であろうがです、私はこう言う事でも、こういう信心でおかげを受けた、と人の前で堂々と話せれるような信心でなかにゃいかんと私は。私はそういうタイプの方がですよ、もういわゆる「神様のおかげを頂かなければ立ち行かん」ということが分かった時です。もうそれこそ長々と赤裸々に、もうほんとに赤裸々に、始めてこの方からこんなお届け、お取次をさして頂いたと思うくらいにです、もうほんとにそこまで、そういう思いならおかげ頂くぞと私は思いましたですね。
 もう神様のおかげを、今までは神様からちょいと、お願いをする程度であった。けれども、根本的に「神様のおかげを頂かなければ立ち行かん」と言う事が分かったと言うのですから、おかげ頂かんはずはないです。しかも赤裸々。ちょうどその時分に、あのある昔の信心友達の方が二人お参りをしておったらね。その方達は自動車で来とりましたから、自動車で乗せて行って、送って行ってね。
 そしてとにかく「ちょっと聞いて下さい」と言うて、その私にお届けしたような話をまた、なさったと言うほどもう絶対、大体そういうことあんまり言わないタイプの方です。いわゆる普通で言うならつつしみ深いと言うわけですね。まあそれを反対に言うなら、秘密主義の方なんです。もうことなかれ主義でもう積んで隠して行けるなら隠して行こう、という生き方なんですね。
 けれども神様にお取次を願うからにはです、もういよいよおかげを頂く為には、赤裸々に「ああです」「こうでございます」「こういう状態になっております」と言うて、お取次を願わなければおられない。翌日息子の事が解決した。その翌々日今まで私共が夫婦の中で、主人がこう言う事を言うたことがなかった、というほどしのことを言うてです、「もうほんとに神様のおかげっていうものはです、もう恐れ入ってしまう」と言うて、その翌々日お届けをしておられますね。
 それからお天候の事が、それこそ久しぶりで、昔のそれに返ったようなお繰り合わせを頂いておる。「ほんとに先生、お参りしなければおられません」とこう言う。今毎日参って来ておるね。ですからここんところなんですよ。そういうふうにおかげ頂くと、お参りしなければ、とにかくもう、たいへん忙しい仕事しておられますから、もう、お参りしようと思いますけども、こんなわけで」と言うて、以前は熱心じゃったんじゃけれども、他の商売を始められてからです、お参りができなくなった。
 で忙しいからに事言わせて、まあ月に一回なら一回、二回かお参りをして見え程度であったがですね。そこんところが分からして頂く人にとってはそうなんです、どういう忙しかったっちゃ、どうであったっちゃ、「お参りせずにはおられん」と言う事になってきたわけなんです。もう毎日参って来ております。そこでここんところね。言わば痛いのが治ったから、有り難いから、参らにゃおられない事になってきたわけなんです。そうでしょうが。だからこれはですね。
 そんならこれがいつまで続くか分からんのですよ実を言うとね。また様々なその問題が反対に引っくり返る様な事があるかも分からんのですね。ですからそういう時でもです、神様の御神意だ御都合だとして、お参りがでけ言わば参らにゃおられんというものができた時に、私始めて「信心の確立」だと思うとです。その向こうにです、それとはいわゆる、反対の事ではなくてそれ。そのもうひとつ先の方へですね。天候の事と言い何かにのことと言いです。万事万端の上に平穏無事。
 ほんとに有り難い事の、おかげの頂けれる、日々が開けてくるわけ。その時にです「痛いのがなおったのが有り難い」ような気持ちで、そういう気持ちで、言うなら、次の御理解でもあるようにね。普通はわが子が病気しておってもですね。「言う事を聞かぬときにままよと思うて、放っておくような気になって」とこう言うておられますようにね、例えば、忙しかろうけれどもです、忙しくない時のような気持ちになって、お参りをできれるような信心にならせて頂く事がです。
 「いつもまめなのが有り難い」と分かるから、そうしなければおられない。そうしなければおられない、お参りしなければおられない、と言う事になってくるんです。私はそういう信心が、私は。昨日の昨夜の御理解に引き続いて、で昨日の御理解は、ほんとにそれは見易い易い、見易い意味合いにおいての「信心の確立」であった。けどもそれですらが、お互い確立してないもの沢山あるんですから、夕べの御理解頂いて見ても。ですから今日はそれが段々、ほんとの意味合いにおいての「信心の確立」ね。
 そういう信心が確立しなければです。迷いが来る疑いが起こるね。「迷わず疑わず」ね「末の末まで教え伝えよ」と仰る。教え伝えて行けれる信心の確立というものがです。本日私が申しますように「痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞ」仰せられる。いつもまめなのが有り難い、平穏無事であると言う事が有り難い。ところが平穏無事になってくるとです、これはもう忙しさにかまけてしまう。そしてもうほんとにどげん考えたっちゃ有り難いと思いよります。
 ただ思いよるだけになる。その有り難いという思いが、自分一家は言うにおよばず。言うならば、世界真の平和にでも繋がっておる、というものでなかにゃいけない。その有り難いと言うものが、世界真の平和に貢献するものでなかにゃならないと言う事。それを手近身近なところに言うとです。私の信心がです、そのまま合楽教会のごひれいに関わるのだと。例えばなら秋永先生達が夫婦・親子でこうして毎朝お参りができる。ならこうやって秋永一家がお参りをしておることが。
 これがどのくらい合楽のごひれいに立っておるか分からん。築水連合会辺りでも、「ほう」ちゅうてからやっぱもうで出らん。ここの中で夫婦でずうっと朝も、やっぱり早い時2時半、3時頃から出て来なきゃならない。「そげなことで、よう仕事がでくるですね」ちゅうてたまがる。それはそのまま合楽のごひれいである。だから私ども一家が、朝参りしてなかったらもう、合楽のごひれいがそれだけ陰るんだもん。だからそれが合楽のごひれいに、いわゆる繋がっておるというものね。
 ですからただお願いのある時だけ参る。と言うと、暇な時参って来ると言うのではなくてです、ね。言うなら、合楽のごひれいに関わると言う、自分の信心がですね。ごひれいに懸けられておる、かかっておると言う様な自覚です。お月次祭でもそうなんです。「もう朝一遍参っとるけんで、もうお月次祭には参らん」と言う様なもんではなくてです、ね。自分が一人お参りしなかったらですね、合楽のごひれいに言わば関わると言うぐらいの信心です。いわゆる放っておく信心です。
 放っておいてね、子供がしんしょうを言う時、言う事聞かん時に、それが例えば病気しておってもですよ、それが放っておけれる。忙しいですよ忙しいけれども、それが放っておけれる信心ね。そういう信心が私はできた時に、あなたの信心は確立したんだ、ということが言える。そして、それは自分で確立したとは決して思わない。ただ、神様がもう「あの氏子は大丈夫」と言うて下さる時なんです。ほんとの確立と言うのは。ね。私どもはそういう信心を目指す事だとこう思うのです。
 痛いのが治る。難儀な問題がおかげを受ける。それには今私が例を持って申しましたようにです、ほんとにもういよいよ「神様のおかげを頂かなければ、私一家は立ち行かん事が分かった」「今までおかげを受けておった事が分かった」と、まず分からなければ。そこから赤裸々なお取次が願えれるね。そこからはあこういう気持ちになりゃ、こういうおかげが受けられるという、有り難いおかげを受ける。やっぱり有り難い。その有り難いおかげの信心がです、続けられて行くところから。
 例えば今度は、それとは反対の事になってきても、「右と願ったことが左になったじゃないか」なんて言うたり思わずにです、そん時にむしろ力を得ると言うかね。むしろ元気が出るとかいうような信心をさして頂くところに「信心の確立」がある。その確立が成された時、そこんところが言うならば、「あの氏子がああいう難儀な事の中に、ああいう生き生きとした信心ができておる」と、神様が御覧になり思われた時にです。「あの氏子はもう大丈夫」と言われる時にです。
 受けるおかげが私は「いつもまめなのが」と言うおかげに繋がって行くのだ、とこう思うのです。言うならば放っておいてもおかげが、段々豊かに大きくなっていくおかげなんです。その時にはもう例えば、もう言う事は要らんと思うんですけれども、そういうまめな時に有り難い、そういうおかげが頂けれるようになったらね。今度はもういよいよそうでしょう。放っておくって放っとかんで良か。例えばんな秋永先生なら秋永先生がね、「もう子供達の方がちゃんと、もう家は切り回してしてくれます」と。
 「もうちゃんと家の支配人がちゃんとやってくれます」と、と言う事になったら、それこそあの吉田さんあたりじゃないですけれどもですね。もうお広前ずうっと行っとったっちゃ良かごとなってる。それも放っておかんで良か、それができるような信心。ところがそう出来る様に段々なって来たかに見えると、さあ向こうの方へ道楽ができた。こちらの方へ遊ぶ事を覚えたと、例えば言う様な事ではいけないと言う事。それは信心の確立を成されていなかったと言う事ね。
 もうそれこそ放っておかんでも、なら教会のごひれいの為に自分が貢献しておる。奉仕しておる自分。又は自分一家。と言う様なおかげも頂けれる信心。そういう信心の時に「もうあの氏子は大丈夫」と言う事になるのじゃないでしょうか。いわゆる神様がお互いの「信心の確立」を認めて下さる。そういう信心になった時に始めて、末の末までも教え伝えられれる信心とはそういう信心を言うのだ、と私は思う。皆さんの場合は今どこをどういうふうに通っておられるか、自分の信心をひとつ思うてみて。
 ほんとに参りゃ参りごとある。これほんとにいよいよまさかこういう時に、こういうおかげを受けられる。それが有り難いと言うのが、まあ普通ではなかろうかと。一般ではなかろうかとね。それはここでも、ほんとにまめなのが有り難いと言う事、と思われる家がいくらもあります。もうこの人達こそ、朝参りしたっちゃ良かばってんと思うような人がありますけれども、さあそれが月に何回しかお参り、そういうおかげを頂いておるのにもかかわらずですよ、と言う事になってくるんですからね。
 だからこれでは、私は神様が信心の確立を認めては下さらない。「そりゃぁもう信心の、辞められん忘れられん」と言うておってもです、それは言うておるだけ。だからそういうおかげを受けた時にですね。それこそ放っておくのじゃない、放っておかんでもでける。いわゆる、教会のごひれいに繋がると言うかね。教団のごひれいに繋がる信心と言うてもいい。例えば吉田さんあたりの場合なんかは、教会のごひれいじゃない。言わば九州の信心。言わばお道の信心とでも申しましょうね。
 金光教の信心に貢献しておられる。しかもそれが、もうそれに専念しておられる。それでいてんなら、事業の方は、商売の方はどんどん繁盛のおかげを頂いておると言う事。そこが成される、私はおかげをひとつ頂きたいね。いわゆる世界真の平和に繋がっておる信心かどうか確かめてみなきゃいけない。教会のごひれいに繋がっておる信心かどうかと言う事を、確かめてみなきゃいけない。痛いのが治ったのも成程有り難い。けれどもいつもまめなのであると言う事はです。
 もう取り分け取り立ててお願いする事はなか、と言うほどにおかげを受けておるということは、もっと有り難いから、いよいよお礼参り御礼参りの信心ができなければならんのに、そこに躊躇すると言うか、腰掛けると言う様な事ではです。本当のおかげもいわゆる、ほんとは「信心の確立」と言う事は言えない、とこう思うのです。いよいよ「信心の確立」をお互い、銘々目指して、信心を頂いて行きたいと思いますね。
   どうぞ。